環状列石52号は、遺跡の北東端に位置し、もっとも近い遺構から120m離れた場所に位置する。この環状列石は直径3m50cmを測り、12個の列石で構成されている。そしてさかさのようになった「墓標」が印象的である。「墓標」の石は1m90cmあって環状列石から東側へ1m50cm離れた位置に建てられていたが、現在では三つの石塊のようになって壊されており、おそらく破壊されて放棄されたものと考えられる。 発掘調査に当たっては、環状列石を9m×9mの81?で、4区分に分けて調査区を設定し、内側と外側の両方にトレンチを入れた。こわされた墓標に近い北東区から6つの容器がまとまって出土した。環状列石の内側は2/3が発掘調査され、残りの1/3は土層観察(セクション図)作成のために残された。発掘調査にあたっては、人為的な痕跡が消失する1m80cmまで掘り下げられた。その結果、深さ1m50cmの層位まで掘り下げて2箇所の埋葬があらたに発見された。
埋葬1号は、深さ1m10cmから1m40cmの位置で発見された。南北1m80cm、東西1mの楕円形に遺体の骨が集められている。位置としては環状列石の中央部に位置する。この埋葬は2次的なものであり少なくとも三つの頭蓋骨がたくさんの長い骨といっしょに埋葬されている。もしかしたらこれらの骨は実際に三体分の埋葬であって三つの頭蓋骨はそのことを表している可能性がある。頭蓋骨のうちあるものは、真ん中に置かれて、取り囲むように鉄製の副葬品を伴っている。ふたつの鉄製の槍先、一つの短刀、ふたつの腕輪がある。ふたつのビーズがみられ、ひとつは青っぽいガラスでもうひとつは紅玉髄であって、副葬品にするために加工されたものである。
埋葬2号は、深さ80cmから90cmの位置で確認され、東西1m40cmで幅1mという細長い形に骨が集められている。この埋葬もやはり環状列石の中央部に位置していて全体としては長いたくさんの骨とひとつの頭蓋骨で構成される。副葬品として、帆立貝の殻、青い半透明のビーズ、鉄製の槍先と矢じりとが発見されている。鉄製の矢じりは、頭蓋骨に打ち込まれたような状態であり、もしかしたらこの被葬者は、いけにえとして備えられたということなのかもしれない。
「高貴なる戦士の墓」SN-03-T-01号墓 [編集]
SN-03-T-01号墓は、Sine Ngayèneの墓域の中央部にあって二重の環状列石から数十メートル程の位置にある。黄色味がかった灰色の砂を含んだ粘土層が盛り上がった形状をしていて直径は10.5mである。発掘調査を墳丘を四分割して南東区と北西区を掘り下げ、中央部に4m×4mのサブトレンチを設定して行った。墓の覆土には沖積土を思わせる色調はみられず、中央部が一世帯分の墓になっていること、全体的に1m80cmよりは掘り下げていないことが判明した。南北の軸で半裁したところ、南へ3mほど寄った状態は重要な意味があるのかもしれない。南北方向に60cm、東西方向に40cmの範囲で焼かれて熱を受けていた。
同じように南北に半裁されていた面をみると、遺体に伴って土器片が濃密に集中していた。墳墓の中心にあって深さ2mの位置にある墓は、頭蓋骨が発掘区として設定した東西、南北の軸の交点にあたる場所から発見された。もっとも古い時期にあたる被葬者の遺体で、仰臥伸展葬[17]の状態で埋葬されていた。上半身は東西方向を向いていて、両足は西南西-東北東の方向へ向いていた。骨盤、胸部のあばら骨、背骨の個々の骨は、保存状態が悪かった。頭蓋骨はいくぶんか高い位置におかれ顔は西を向いて左に傾けられていた。両足は平行にまっすぐ伸ばされ、両腕は両方のわき腹に対して軽く曲げられている。
副葬品の主なものは、繊細で優美な銅ないし銅の合金を用いた円錐を底面であわせ全体として横からはひし形に見えるペンダントのついた首輪、骨盤のそばの位置で、右肩から胸を交差してするさやに収められていたであろう短剣があった。それぞれ0.25m?0.45mあって、全体で8つある鉄製の槍先は、左の肩の高さにあわせて上半身に並行にならべられた。左の大腿骨のそばには、指揮官の地位にある高位の人物が用いる「指揮杖」の先端部分を入れたと思われる鉄製の筒が骨と同じ長さで置かれていた。 そのほか銅製のベルトと思われる輪のようなもの、両足のくるぶしに着けられた鉄製の鈴である。このような豪華な副葬品は墓の被葬者が権威ある地位にある戦士階級に属する人物であることを示している。
「高貴なる女主人の墓」?SN-03-T-02号墓 [編集]
SN-03-T-02号墓は、遺跡の中央部に位置し、二重の環状列石の西側100m以内の場所に位置する。黄色みがかかった灰色の砂質の粘土でやや盛り上がっているので目立つ遺構である。直径11m近い規模である。 底辺11m、高さ5mの三角形の調査区が設定され、発掘調査が行われ、さらに墓の中央部に2m×2mの調査区が設定されて調査が行われた。発掘調査は、墓の西半分を深さ180cmまで掘り下げて行われた。墓の中央部の発掘調査を行ったところ、深さ80?90cmの位置で、やや北側に偏った位置に非常に保存状態の悪い被葬者の骨格が確認された。骨盤や手首から手のひら、足首から足の骨、胸部の骨はあるが、腕や足の長い部分の骨は喪われていた。頭蓋骨は、粉末状の塊になっており、その痕跡の形からその位置に頭蓋骨があったことがわかるといった状況であった。この被葬者は、東西方向で左を向いた横向きの状態で、両腕をやや折りたたむように曲げて両足も曲げた状態で埋葬されていた。しかしながら、副葬品はおもいのほか豪華で目をみはらせるものであった。
左腕にある八つの銅製または、銅の合金による腕輪
右腕には細長くしたそろばんの玉の[18]ような銅製または銅の合金製のブレスレッドがあった。
左のくるぶしには銅製ないし銅の合金製の足環がつけられていた。
さらに酸化銅によって良好に保存されて、魚の背骨で造られた足環も残っていた。
この人物の墓の場合、鉄製の副葬品がないのが非常に特徴的である。
SN-03-T-02号墓は、前提となる埋葬の方式や変遷過程がSN-03-T-01号墓によく似ているが、墓坑の深さ自体は浅い。南北の軸に火による熱を受けた痕跡はないが、まだ発掘調査が行われていない部分については保存状態がよいと思われる。実際のところSN-03-T-01号墓とSN-03-T-02号墓は、墓の中心に対してほぼ対照的な位置にあり、一方が他方と相補的な関係か、反射し合うような関係にあるように思われる。副葬品の特徴や墓の配置から、SN-03-T-02号墓の被葬者が女性であると考えることも可能である。しかし、反論する材料が何もない一方で、被葬者が女性であるという確固たるデータの裏付けもない。また、副葬品という物質的に限られたものと墓の配置という限られた特徴からの推定であるので、実際に副葬品に両義性や多義性といったものがあるのかどうか検証されなければならない。ただ、SN-03-T-01号墓は、最高位の権威ある高貴な戦士であって、SN-03-T-02号墓は、高い身分の女主人であると考えるのは魅力的な説であるのは間違いない。
「儀礼的空間」SN-03 [編集]
「儀礼的空間」SN-03は、Sine Ngayéne の墓域の中央、環状列石27号とSN-03-T-02号墓の間に位置し、一ヶ所だけ墓標のような石が連続している場所があるほかは、SN-03-T-01号墓やSN-03-T-02号墓とことなり、一見ラテライトの岩のかたまりがただ単に散乱しているように見える場所である。2003年に、Augustin F.C. Hollらによって発掘調査がおこなわれた。発掘調査区は、南北5m、東西3mの15平方メートルに設定された。発掘調査は、1.25mの距離で、南北の軸に沿って並んでいる小さめの立石の周囲をつなげるように行われた。南北の立石は壊されてふたつの石塊になっていることと、北側の立石はおそらく原位置を保っていることが発掘調査でわかってきた。また「儀礼的空間」は二つの立石を伴う基壇であり二期にわたって構築されていることが判明した。
第一期は地表から深さ50?70cmの位置であり主軸方位が南西方向を向いたラテライトの石塊で長径1.2m、短径1m楕円形に築かれた基壇で高さは60cmである。その南側につぶれた大甕が位置する。甕は原位置でつぶされ、破片が南西北東方向に1m、南北方向に1.5mの範囲で散乱している。胎土が赤茶けているので赤い帯のように見える。東側中央に直径20cmの石囲炉がラテライトの石塊を横倒しにしてつくられている。ラテライトの石塊で壁を敷き詰め、確認面にて幅80cm、底部で幅60cm、深さ20cmの砂の充填された穴が東側中央でも北寄りに造られる。このような遺構は他には見当たらない。
ウリヤ きくすい ルーン はに丸 フィッシン サディ ビアガー ジャック コスプリ ワニス 深海 トリオ パンパン ボート レーター しじゅう オフロード シーン ドラム ナミビア やちょ アカペラ セミプロ レガッタ ロヤジル トルソ フフホト ケモカイン リンリン メシマ ニュー ビュス プロテクト テーブル シャレー コリオン 四季の綱 トメント フォロー オマージュ ゲート パセリ フォーク ナーダム おきな シート しょうわ サック ティペット ジョンツ
第二期は、地表から深さ20?30cmの位置であり、三つの小石で積み重ねられた基壇が検出された。一つ目は、2m20cmが地表に露出し、北側に立石がたてられている。もうひとつは、3m60cmあって南西方向に向いている楕円形で地表には1m60cmまで露出している。三つ目の基壇は、儀礼的空間の北端部に位置し、主軸方位を北東に向け、長さ70cmに対し幅30cmである。そして三つの土器が取り囲むように置かれた。
この空間で行われたのは葬送儀礼なのかそれともほかの性格の儀礼なのか、あるいは何のために解放された空間なのか、この空間で儀礼をおこなった人物がどのような地位にあったのかは今のところ全く不明であって、何らかの儀礼がおこなわれた空間であるとしかいうことができない。